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東洋と西洋 [ちょっと哲学]

えーーっとこの記事は備忘的に書きます。よってほとんど面白くありません。

僕の中の歴史観の中で東洋的ということと西洋的と言うことは、弁証法的に二つの対立概念として存在しています。さてちょっと酒を飲みながらひらめいたことがあるんで備忘的に書きます。

それは宗教がもろかかわります。
キリスト教を始め西洋的な宗教は常に一神教のように思えます。東洋的(別にそれが正しいと言う訳ではありません)まあ仏教が代表的でしょうがここには一神教なんて概念はありません。これはなぜか?
僕の仮説ですが西洋のやり方と言うのは常に分析的でした。理解の仕方、これを常に分けていくんですね。医学が一番分かりやすいかもしれません。人体とはどういう構造になっているのか?徹底的に分けていきますね。西洋医学的に言えば人間の体は臓器の集合体でしょう。生きていくために飯を食う。それは食道から胃に運ばれ腸に移る。その過程で生命の再生産のために必要な栄養素を取りつつ必要でないかもしれないものは後行程にゆだねられる。まあ腎臓、肝臓、膵臓あたりの出番ですか?
ところで東洋的には決してこういうとらえ方はしません。人間は生きていると言うだけで一つの系です。臓器の塊ではなく生きていることだけで一つの系ですから、そもそも問題の立て方が違うんですね。
何回も言いますがどちらが正しいなんて議論はもうとっくに終わった時代に入っています。ちょっと前までは西洋医学のやり方の方が一見正論に見えた時代がありました。
ところがたとえば肝臓がんは直したけどその肝臓を摘出した人間が死んだら、何のための医学何だったんだという反省があります。そう医は何のためかと言う問いかけが西洋医学の限界として見えるでしょう。

目的と手段の混同。医学は人を救うはず=これが目的なのに、こまやかな臓器の働きまで分かった、ゆえにそれを直せばいい、と言う医学は行き詰ってしまったんだと思っています。
さて話を戻します。このような分析的な西洋のやり方、系としてとらえる東洋的なやり方。
これは思想的にも大きな影響があったと思います。
前もこのブログで書きましたが、僕は「神」と言うのはあくまでも概念だと思っています。なぜ西洋の宗教はいずれも一神教になるのか?それは先ほども書いたように分析的にとらえると理屈では起こりえないことが起きてしまう(たとえば肝臓は治ったのにその人は死んでしまった)、これを合理化するためにはすべてを決定できる神と言う概念を使うしかないでしょう。一方東洋はあくまでも系としかとらえませんから神のようなワイルドカードは不要です。これはあくまでも自分の仮説ですが、人の思考をつかさどるものの考え方と言う意味では結構本質的ではないかと思ったんで備忘的に記しました。もちろん哲学に与える影響と言う意味では言語も大きいでしょう。ただ考え方の本質つまり分析的にとらえるか、もしくは体系的にとらえるかという志向が選ぶべきいや、自分の支えとなる宗教の選択と言う意味は結構大きな影響を与えるんではないでしょうか。
好きか嫌いかは別としてアメリカのまあキリスト教的な二元論(すべて善か悪の二元論にすり帰る)、一見何の科学性(西洋的に言って)もないように見える極めてあいまいとも思える多神教=まあ日本でしょうか、
このような大きな対立概念がぶつかりあって21世紀の学問の方向性が決まるような気がしてならない今日この頃です。
このような西洋的、東洋的と言う単純な議論ではないでしょうがいろいろな学問の中でこのような問題が派生しているのは当たらずとも遠からずなんではないかと思っています。こういう議論を踏まえ何とか新しい地平が開けると今回のような金融クライシスにも新たな解決法が見えるような気がしますし、そうしなければいけないと思っています。
ここまで書くと今回の金融危機、前回はニューディール政策で乗りきったわけですが、自分の案を言うと、キーは宇宙だと思っています。冷戦の優位性を示すために使われた観もあった宇宙開発ですが、今こそ環境問題、資源の問題、これをグローバルな視点でとらえなすすには宇宙から地球の問題を考え直すいいチャンスだと思います。そうは言っても膨大な資金が必要です。21世紀的に考えるとここに全世界的に資金を投じまさに20世紀の金融危機を乗り越えた時のような新たな需要を創出できるんでは?と言うのが最近僕の思っているところです。


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