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ちょっとした戦争論 [ちょっと哲学]

たいしたことはないんですが戦争について。
常々書いているかもしれませんが、僕の歴史観はマルクスに原点を持っているのは間違いありません。
それは唯物史観と弁証法なんですが、今日戦争について書くのは唯物史観に基づいているんでしょうか?
イラク、アフガンあたりで米軍の誤爆によって民間人に死者が出たという報道を良く耳にします。
これって現在はなんか当たり前のことのように聞こえますがたった60年前だったらとんでもない報道に聞こえるでしょう。
なぜかと言えば第2次世界大戦、それに続く朝鮮戦争、(ベトナム戦争はどうなるのか微妙と言うよりあの辺が端境期なのかもしれませんが)あたりまでは戦争と言えば殲滅戦が常識でしょう。
市民を巻き添え、なんて発想はあるべくもなく、敵国は皆殺し、これが戦争の基本だったような気がします。
そもそも国と国の戦いですし今のようにピンポイント兵器があるわけでもない。
もっと言ってしまうとその時代までの戦争は明らかに主たる原因が経済に基づく戦争だったんではと言うのが僕の仮説です。
日本が突っ込んで行った第2次世界大戦。実は僕はシュミレーションゲームで大正末期から日本の責任者を気取ってやってみましたが、その状況たるやもう惨憺たるものです。内政をどのようにしたってうまくいきませんし、外交でどうやってもある程度以上は上に行けません。当時の首脳陣を批判するのは簡単ですがいったい日本にどういう選択肢があり得たのか?率直に言って今簡単に批判するほど選択肢があったとは思えませんし、どの選択肢を選んでもろくな結末にはならなかったと言う気がします。だからと言って日本の実際に起こした行動が正しいと言いたいわけではありません。これはもう起きてしまったことですしいまさら取り返しがつくことでもないのは当たり前の事実です。唯一あったかもしれないのはたとえ経済的には不幸でも精神的な豊かさ、日本人にはどこかラテン的なケセラセラ的な精神があるとも思っていますんで、経済的な発展のみを模索するのではない選択肢があったかもしれないと言うことぐらいでしょうか。それとてうまくいくかの保証なんてのはゼロですが。
さて話を戻すと、第2次世界大戦あたりまでは明らかに帝国主義的は経済侵略要素が戦争の原因になっていたと考えています。よって敵国民は全滅した方が取り分は増えますし、戦争に勝つと言うのはそのような要素も多かったんではないでしょうか。ことは欧州でもおんなじですよね。ドイツもイギリスのV2で攻撃したり空爆なんてのは一般市民なんて概念すらなく都市の壊滅を狙ってしてたんですから。
そういう意味で最近の戦争と当時の戦争と言うのは明らかに質的に変化していると思います。別に戦争を美化するわけではありません。戦争は常に醜いものではあるでしょう。でも変わっているのも事実です。
これはいったい何を意味するのか?マズロー的に考えれば歴史はすでに「生存の欲求」レベルを超えたと言う言い方もできるかもしれません。発展途上国同士ではまだこのような経済に起因する戦争はありうるでしょう。しかし最も多く起きるかもしれない戦争は自己(民族、宗教、言語等もっと文化的)実現、によるものと言えるんではないでしょうか。これからも望むと望まざるとは関係なくこのような争いは絶えないでしょう。しかしその問題の起きる本質的な問題、それを認識すれば戦争と言う形ではない新たな解決策も見えるんではないか?これは今の段階ではかなり空想的であり楽観的な発想とは思っていますがそのような解決策の模索を人々が真剣に努めれば、今までの反省に立ち経験から学んで行けばきっとそのような解決策が見つかると信じたいと思っています。
このような発想は僕の思考の一つ、いつまでも国家という組織が人を統治する時代ではないと言うことも影響しているでしょう。
戦争=皆殺し、こういうスキームではなくなった、これは進歩と言えるかどうかは分かりませんが進化と言うことは間違えないと思っています。
まあそうは言うじょう、本当い難しいのは軍事と言うことと経済と言うのが現在ではまだ深くつながっている点でしょうね。戦争と言うのは大いなる消費、シニカルに言い換えると戦争によりかなりの規模の需要創出ができるのも嫌ですけれど事実です。アメリカを支える産業の一つは間違えなく軍需ですしね。
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