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中原中也と芸術論 [ちょっと哲学]

先週NHKで中原中也の特集があった。
中原中也、僕の歴史観の原点がマルクスだとすると、芸術観の原点は中原中也とドストエフスキー、宮沢賢治となるのは間違えないところです。
特に中也には深く影響を受けました。大学の授業をさぼってジャズ喫茶(吉祥寺のメグが好きだった)やロック喫茶(これも吉祥寺のビバップが好きだった)では中也かドストエフスキーが定番でした。
一時は真剣に詩人になりたいと思ったこともありました。今思えば若気の至り。才能なんてまるでないんだから。
さて、人はなぜ芸術に惹かれるのか?それはもう「感動」の一言に尽きるような気がします。もしくは「時を忘れる」と言うことかもしれません。
大学の時菊池雅章のライブで得た全身総毛立つあの感動!本当に背筋が寒くなり、ぶるぶる震えがきました。

このような感動は芸術に限ったものではないでしょう。たとえば山頂で迎える素晴らしいご来光だったり、山の様々な素晴らしい景観からも似たような感動があります。
ひょっとすると酒に酔うと言うのも似たような要素があるかもしれませんし、ドストエフスキーは博打にはまった「放心の快感」ということやセックスの快感も同様かもしれません。
芸術とは音、文字、絵と言った人間が作り出したコミュニケーション媒体を使って人に感動を与えるものだと僕は思っています。人は生き方も様々ですから、反応する媒体もさまざまだと思っています。
たとえば僕の場合「絵」からは感動が来ないんです。「きれいな絵だ」とか「うまく描けているな」と言うのはありますが感動ははっきり言ってしたことがない。
ところがジャズや中也の詩はもうじーーーん!と来るんですね。
これはいい悪いと言う問題でも好みの問題でもなく、天性のものではないか?と言う気がしています。まあ育っていく環境も大きいのかもしれません。
芸術を語る上で一番厄介な問題の一つは「その感動を何とか人に伝えたい」と言う点にあると思っています。食べ物のうまさも決して完璧には伝わらないのと同様感動も人に伝えると言うのはほとんど不可能な世界です。熱心に伝えようとすればするほどその感動とは異質の表現になってしまうと言うことはよくある話ですし、人間関係が壊れてしまうこともあるでしょう。
中也の芸術論覚書に次のような一節があります。
「これが手だ。と名辞する以前に感じられる手!その手が深く感じられていればよいのだ」
詩でたとえば「手」と書く際にそれを深く感じていなければいけないと言う表現の裏返しなんですがこれは大変な共感を覚えました。こんな一節もあります。
「潔癖、規定欲がいけないんだ。(中略)つまりあらはるはあらはるままで良いこと」
これはたとえばある感動をこうだと勝手に定義づけてはいけないという戒めでしょう。
たとえばさっきのご来光の感動を「昇る朝陽の赤と、雲海の白のコントラスト」なんぞと決めつけてはいけないんだが、人はついそれを規定したがる。と言うことでしょう。
感動はその時の匂いや体調、一緒にその時を共有している人等様々な要素が複雑に絡み合っていますから、そう簡単に説明がつくものではありません。もっと言うとなぜ感動しているのかと言うことはえてして答え何ぞないものです。表現の限界と言うのはそういうところにあるんでしょう。
かくいう自分もやはり感動したものは人に伝えたい。でも最近は必要以上に説明することは避けています。
伝えた人が少しでも感じてくれればそれでよし、と言う心境でしょうか。

さて、芸術で厄介な問題はまだありあます。それは「この作品が分からない奴は文化人ではない」という風潮です。芸術を金に換えていく関係から起きた問題なのは明白と思っていますがこれは大変嫌な問題ですね。「ピカソの絵の素晴らしさが分からないの?」となじられたって「僕は何の感動も覚えない」としか言いようがありませんから。評論家の世界ですよね。まあ言葉は悪いんですが評論家によっちゃあ「こいつ本当にこの作品に感動したんだろうか」と思ってしまうこともよくあります。
ある作品に触れその感想を書くことを生業にすると、ありがちなことです。その人が権威をもってしまっているとすると感動なんぞはどこ吹く風で、「あの評論家が言ったんだからこの作品は素晴らしいに決まっている」と言った現象が起こってきます。
人はそれぞれですからそれはそれで構いませんが僕は芸術とはそういう観点では付き合いたくありませんね。

さて話を変えて中也についてです。NHKの番組では結構中也について好意的に描いていましたが僕の知識の範囲で言うとかなり違っています。僕も中原中也全集は読みましたしかなり学習はしたつもりです。
僕の中也像は「詩は素晴らしいが絶対友人にはしたくない男」です。
20歳ころに「宇宙の機微、悉皆了解」なんて平気で書いている男です。傲慢で不遜、友人と思われた人もどんどん去っていくのは当然ですよ。
この辺は宮沢賢治と正反対です。こんな嫌な奴があのような素晴らしい詩を書く。と言うのは結構不思議なことです。そのギャップが面白いと思った時期もありました。
長々と書いてきましたが芸術と言うのは人にとやかく言われるものではなく「自分で感動したもの」があればよい、と言うのが僕の意見です。
ちなみに僕は小説は芸術とは言えないと言う仮説を持っています。
芸術とは感動ですから右脳の世界ですが、小説は結構理屈の世界、左脳の世界のような気がしています。
すべての小説がそうだと言う訳ではないんですが音楽や詩とはちょっと違う領域にあると思うんですね。
これは小説の価値が低いと言う意味ではありません。世の中には面白い小説が山とありますし僕も小説は大好きです。ただし、僕の感じではそういう定義付けになってしまっています。
潔癖、規定欲がいけないんだ!
おっしゃるとおり、お後がよろしい様で。


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コメント 4

kon-g

むむむむ、深すぎてすぐには反応できません。んが、思い当たることが多々ありました。

CD評というのをたまに雑誌に書かせていただくことがあるのですが、こちらから「これについて書かせろ!」というわけにいきません。で、先方から「これ書いて」と言われて音をもらって書くのですが、必ずしもその音楽を気に入るとは限りません。

自分としては感動しなかったとしても、「感動しなかった」と書くわけにはいきません。それを望まれていないからですが、自分の無感動を他人に押し付けるのも憚られますし…。

私は音楽が仕事ですが、演奏や曲作りは掛け値なく好きです。なにかを評論することよりも1000倍以上楽しい。そこには言葉が介在する必要がないからなのかな?あ、歌詞ってのもありますが。

余談ですが私もビ・バップや「赤毛とそばかす」に通ってました。たまに「Funky」にも行って、わからんながら耳を凝らしていました。
by kon-g (2008-12-16 03:16) 

takolin

kon-gさん、コメントありがとうございます。サンプル音源全部チェックしています。ノリのいい曲が気に入っています。
僕も昔バンドやってました。フォークでしたが、曲を作るって大変ですよね。っていうか自分に才能がないだけだけど。ちょっと思うことは作曲もどうなんでしょう、あんまり人に受けようなんて感じで作るとかえってこけるような気がするんです。自分の中からあふれてくる音、それを素直に曲にする。結果それに感動する人がいる。それが自然のような気がします。
僕はジャズだとピアノトリオが好きだしたが、ピーターソンが嫌いでした。
なんかほれっ!俺はこんなに早く弾けるんだ、みたいな押しつけがましさを感じてしまった。ガーランドとかエバンス、マイナーだったけどハンプトン・ホースがお気に入りでした。
閑話休題
しかし、感動しないものに評論するって大変でしょうね。でも逆に感動した方がそれを伝えたいって気持ちが強くなるからかえって大変かも。仕事って割り切って書いた方が却ってよいのかも?と考えが膨らみました。
赤毛とそばかす、武蔵野火薬庫ぐぅらんどう、ブラックホーク、BYG、も結構行きました。funckもスピーカー目当てで通いました。なんか当時のジャズ喫茶って楽しむより格闘しなければいけない雰囲気でしたよね。
by takolin (2008-12-16 08:01) 

『中也が愛した女』 事務局

突然のコメント失礼致します。

この度 弊社で企画・制作致します舞台、
『中也が愛した女』 のご案内をさせて頂きたく
不躾ではありますがコメントさせて頂きました。

誠に勝手で申し訳ございませんが、ブログを
読ませていただき、関心を持っていただければと、
投稿いたしました。

下記URLが「中也が愛した女」のサイトです。
http://www.chuyagaaishitaonna.com/

ご興味がありましたら是非お越しくださいませ。

このようなコメントが失礼に当たりましたら大変申し訳ございません。
何卒御容赦くださいませ。
by 『中也が愛した女』 事務局 (2009-02-16 14:41) 

takolin

いえいえ、迷惑なんぞではありませんよ。
後でゆっくり見させていただきます。
by takolin (2009-02-17 08:04) 

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