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芸術と教育 [ちょっと哲学]

前回の記事の続きと言えば続きです。
教育に関しては一度じっくり書かなければいけないと思っているんですが、芸術の教育に関して書いておきます。
教育、これは現在の国家がなすべき3つの機能の一つだと思っています。
教育、安全、衛生。
さて、人は生まれてからすぐに教育を受けている、いや受精したときからすでに始まっているんでしょう。
押しつけ教育はいけないと言うような論もありますが、僕はそうは思いません。
プリミティブな段階では押し込んだ方が良い、と言うのが自説です。
読み書き、そろばんと言う言葉がありましたが、言語や算数は今の世の中では必須でしょう。
だから義務教育の段階できっちり習得しなければいけないでしょう。足し算、九九という知識がないと高等数学には行けないと言う気がします。
問題は高等教育なんでしょうか?
ずーーっと、詰め込み教育。こうなるとこの学問は何の役に立つのか?理解ができなくなりモチベーションも下がる。文系の人間(まあこういう分け方は好きでないんですが)にとっては物理、化学なんて訳分かんないっす。ってことになります。モル濃度なんてありましたが、なんじゃこれって気がしましたし、微分・積分も「だから何なんだよ!」って気になります。
ある程度のレベルになってきたらその学問の意味づけをすることがとっても大事だと思います。
「この学問をやると、こういうことが分かる」とか「このような分野の発展に役立てる」とか。
僕自身で言うと、社会人になってからの方がいろいろ勉強したつもりですが、仕事に直結するとその意味が理解できるような気がしました。
さて、芸術です。
義務教育にも「美術」「音楽」がありました。前の記事でも書きましたが音楽はまあまあの成績でしたが美術は酷い成績でした。
最初は何の経験も少ないでしょうから色々な作品と知り合うことは重要だと思います。
色々な音楽(ジャンルを超えて)、色々な絵画に触れる機会を与えることは良い経験でしょう。
しかしどうなんでしょう。そういう段階でテクニックに近いことを教えると言うのは。
国語の中でも詩がありますね。国内、海外の素晴らしい詩に触れるこれは大事です。まあ詩の場合は翻訳すると別の作品になってしまう可能性が高いような気がしますが。
よろしくないのは感想文ってやつ。これは詩であれ、音楽であれ美術であれです。
例えばピカソの絵を見て正直言えば「なんてへたくそな絵だ」って書くとアウトです。でも子供心で正直に言えば率直な感想でしょう。
この人はすごい芸術家であるから何らかの感動を表現しなければいけない、これが今の教育の実態ではないでしょうか?こうやってなんらかの権威付けをしていかなければ国家自体の権威が保てない、という時代もあったんでしょうが僕の感じではもう時代錯誤も甚だしいような気がします。
権威とテクニック論、こういうので何となく他の学問と同じようなランク付けをする。そうしないと教育体系に入らない。こういうやり方は情操教育と言うのとは対極のような気がします。
絵がうまく書けない=あなたの成績は2、なんてやってなんの意味があるんでしょうか。
美術、音楽、詩みたいな世界はなるべく多くの作品に触れる機会を与える。あとは自分の好きな領域に入って行けば「好きこそ物の上手なれ」って理屈で勝手に興味を持つんではないでしょうか?
印象派の絵画ってデジタルの世界ですよね。近くで見ると点々で書いている。たとえば印象派だからすごいんだ、って教わった気がするんですが、そんなテクニックがすごいなんて教えるのはいかがなもんか?
(うーーーん、いかん絵がダメなんでつい美術教育の批判になっていますね(汗))
僕はギターが好きで結構はまりましたが、そうなると勉強しますよね。音階みたいのがあったり、チューニングも結構いろいろあったり。でも大事なのはそういうテクニックではなく最後はどういう艶のある音になるのかとかそういう感性の世界に入るような気がします。
(あっ!前回の記事の重複になっている!)
まあ言いたいことはその人の感じる世界に導くまでが芸術の世界での教育の役目で、好きなものが見つかればもうその人に任せれば良い、と言うのが僕の思っていることです。
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