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ちょっとした戦争論 [ちょっと哲学]

たいしたことはないんですが戦争について。
常々書いているかもしれませんが、僕の歴史観はマルクスに原点を持っているのは間違いありません。
それは唯物史観と弁証法なんですが、今日戦争について書くのは唯物史観に基づいているんでしょうか?
イラク、アフガンあたりで米軍の誤爆によって民間人に死者が出たという報道を良く耳にします。
これって現在はなんか当たり前のことのように聞こえますがたった60年前だったらとんでもない報道に聞こえるでしょう。
なぜかと言えば第2次世界大戦、それに続く朝鮮戦争、(ベトナム戦争はどうなるのか微妙と言うよりあの辺が端境期なのかもしれませんが)あたりまでは戦争と言えば殲滅戦が常識でしょう。
市民を巻き添え、なんて発想はあるべくもなく、敵国は皆殺し、これが戦争の基本だったような気がします。
そもそも国と国の戦いですし今のようにピンポイント兵器があるわけでもない。
もっと言ってしまうとその時代までの戦争は明らかに主たる原因が経済に基づく戦争だったんではと言うのが僕の仮説です。
日本が突っ込んで行った第2次世界大戦。実は僕はシュミレーションゲームで大正末期から日本の責任者を気取ってやってみましたが、その状況たるやもう惨憺たるものです。内政をどのようにしたってうまくいきませんし、外交でどうやってもある程度以上は上に行けません。当時の首脳陣を批判するのは簡単ですがいったい日本にどういう選択肢があり得たのか?率直に言って今簡単に批判するほど選択肢があったとは思えませんし、どの選択肢を選んでもろくな結末にはならなかったと言う気がします。だからと言って日本の実際に起こした行動が正しいと言いたいわけではありません。これはもう起きてしまったことですしいまさら取り返しがつくことでもないのは当たり前の事実です。唯一あったかもしれないのはたとえ経済的には不幸でも精神的な豊かさ、日本人にはどこかラテン的なケセラセラ的な精神があるとも思っていますんで、経済的な発展のみを模索するのではない選択肢があったかもしれないと言うことぐらいでしょうか。それとてうまくいくかの保証なんてのはゼロですが。
さて話を戻すと、第2次世界大戦あたりまでは明らかに帝国主義的は経済侵略要素が戦争の原因になっていたと考えています。よって敵国民は全滅した方が取り分は増えますし、戦争に勝つと言うのはそのような要素も多かったんではないでしょうか。ことは欧州でもおんなじですよね。ドイツもイギリスのV2で攻撃したり空爆なんてのは一般市民なんて概念すらなく都市の壊滅を狙ってしてたんですから。
そういう意味で最近の戦争と当時の戦争と言うのは明らかに質的に変化していると思います。別に戦争を美化するわけではありません。戦争は常に醜いものではあるでしょう。でも変わっているのも事実です。
これはいったい何を意味するのか?マズロー的に考えれば歴史はすでに「生存の欲求」レベルを超えたと言う言い方もできるかもしれません。発展途上国同士ではまだこのような経済に起因する戦争はありうるでしょう。しかし最も多く起きるかもしれない戦争は自己(民族、宗教、言語等もっと文化的)実現、によるものと言えるんではないでしょうか。これからも望むと望まざるとは関係なくこのような争いは絶えないでしょう。しかしその問題の起きる本質的な問題、それを認識すれば戦争と言う形ではない新たな解決策も見えるんではないか?これは今の段階ではかなり空想的であり楽観的な発想とは思っていますがそのような解決策の模索を人々が真剣に努めれば、今までの反省に立ち経験から学んで行けばきっとそのような解決策が見つかると信じたいと思っています。
このような発想は僕の思考の一つ、いつまでも国家という組織が人を統治する時代ではないと言うことも影響しているでしょう。
戦争=皆殺し、こういうスキームではなくなった、これは進歩と言えるかどうかは分かりませんが進化と言うことは間違えないと思っています。
まあそうは言うじょう、本当い難しいのは軍事と言うことと経済と言うのが現在ではまだ深くつながっている点でしょうね。戦争と言うのは大いなる消費、シニカルに言い換えると戦争によりかなりの規模の需要創出ができるのも嫌ですけれど事実です。アメリカを支える産業の一つは間違えなく軍需ですしね。

宗教戦争 [ちょっと哲学]

今日は少し仕事で遅く帰り、TVを何げなくつけていましたがNHKのBSでおそらくはIRAとイギリスのテロ問題であるような番組をやっていました。想像ですがBBSあたりが制作したんでしょうか?
カトリックとプロテスタント間で起きたある意味では宗教戦争の問題がテーマなんでしょう。
「私がカトリックだったからテロを受けた」とか「心の底からプロテスタントを憎んでいた」とか「このような悲惨なテロを起こす人って相手にもおんなじように家族がある、その家族がどれほど悲しむか考えたことがあるんでしょうか?」とかまあ様々な意見がありました。
一昨日書いたと思うんですが、いったいこのような宗教的な争いって日本人には理解不能だと思っています。もちろん日本にも一向一揆をはじめ様々な宗教的対立、戦争はありましたが、西洋的なキリスト教の対立は理解不能だと思います。旧約聖書と新約聖書の差を正しく理解している日本人は皆無に等しいでしょう。アメリカ建国もそうですが、ギリシャ正教とロシア正教は何がどう違うのかとかキリスト教と一言で言っても分派はたくさんあり、それぞれがそれぞれの信じる解釈、それも一神教であるがゆえに激しく対立します。
仏教でも念じれば済むと言うような大乗仏教と自己研鑽が前提の小乗仏教の間で様々な対立があったのは確かでしょうが今の日本、まるで無宗教の世の中で真剣にこのような対立があるとは思えませんし(もし論一部であるのは事実ですが)何よりもキリストをめぐる解釈問題の本質を理解できるとは思えません。

前回書いた東洋と西洋の中で思ったこと、つまりまあ西洋的な宗教は必然的に一神教になってしまうよいうことを敷衍するとある意味ではキリスト教の対立の激しさは少し分かるような気がします。分派同士とはとはいえともに一神教ですから自分の信じる教義はすべて。それに反するものは異教徒でしょう。
完璧な原理主義と言い換えても過言ではない気がします。
よって教義に反するものは死をもってその生を終えても仕方がないでしょう。僕も若い頃思ったんですがIRAの問題は分かりませんでしたね。おんなじキリスト教同士がなぜ経済的な問題でもないのにこの時代こんな争いをするんだろうと?
今日の番組をみてある程度、本当に少しでしょうが分かったような気がしました。
テロを起こした側の人が先ほどのテロを受けた側の少女の疑問つまりテロを起こす側の人は私のように受けた側の家族がどう思うか?云々の質問に対し「当時はそんなことはこれぽっちも思わなかった。単にカトリックが憎かったし、彼らを殺さなければいけないと思った。今は家族もいて、昔の自分とは違うしそんなことはできない」と言うような発言がありました。
これはまあ当然でしょうね。こういう原理主義オンリーで行動できるのは若い時だけと言ってもいいように思います。若い時って自分もそうですが将来に対する漠然たる不安、それに伴う世の中に対する理不尽観、経験がないだけに理論だけに頼る自分等の面を持っています。
勢い原理主義に走らざるを得ません。自分の信じていることがすべてだし、自分の理論は正しいんです。
僕はこういう若者を否定はできません。自分がそうだったからと言うこともあるんでしょうが若いと言うことはそういう側面を持たざるを得ないんではとも思っています。
そうして自分の信ずるように世の中が変わる行動を取りたい。これは良いか悪いかは別としてある意味では仕方がないことではないとすら思います。時がたつとその犯罪行為がどれほど酷いことだったのか思い至る人も多いでしょう。その反対の人もまあ少数だとは思いたいんですが存在するでしょうけど。
何が大事かと言うとそういう自分の悪い面を正直に若い世代に伝えていくことではないでしょうか?そういう意味で今日の番組はある意味では面白い企画だったと感じました。
出来うるならばキリスト教にとどまらず、今一番の問題かもしれないイスラムとキリストの間でもおんなじ解決がないんだろうか?と言う点です。
両者の違いって東洋から見ると本当にわずかでしょう?聖地もおんなじ。
分派も多いんで日本人には理解できない大きな問題が存在するのが事実何でしょうがそれはプロテスタントとカトリックと言う問題も僕にはおんなじに見えます。
おんなじ人間として生きている、テロが起こす様々な悲劇、それを人間と言う観点から解消すると言うことが今回のやり方から何とか糸口を見いだせないか?そんなことを感じさせてくれる番組でした。


もっと良いと思うことには素直に感謝すると言うこと [ちょっと哲学]

今日はどんどん書いておきます。最近医療ミスとか医者不足とか言う報道がにぎやかです。
僕はTVの報道が大嫌いですし、それが視聴率と言うまあTV局の収益の根源にかかわっているからと言うのは分かるんですが、人のことは簡単に言いながら自分は反省しないと言う、人としてと言うか自分の哲学では許しがたいことをしているんが本当に腹立たしい。
さてそこでもう一つ。
何が言いたいかと言うとちょっと前にNHKの教育TVである尼さんの報道があったんですね。彼女のセリフ実に深い。
歴史的に見てですよ、昔と比べ確実に良くなったことには感謝しなければいけない。と言うのがありました。
思い起こせば僕がまだ小学生のころ。飯、くえません。少なくとも腹いっぱいなんてことは。
牛肉、バナナ、砂糖、思い起こせばどれぐらい貧しかったでしょう。僕は東京の練馬区で育ちましたが、小学校では冬場ストーブで十分教室が温まるなんて言うのも怪しい。冬は寒く生徒はみんな脂分もなくあかぎれで血をにじませていたな。服だっていつも着たきりすずめ。お湯なんていうのが蛇口をひねれば出てくるなんてありえない。思えばそんな小学生時代の思い出があります。まあ言っちゃあなんだけど、誰がいつ死んでもおかしくない。つい何十年か前はそんな時代だったんでしょう。
医学も進み、産業も著しく発展し、みんなそういう時代を忘れたんでしょうか?いやな過去は思い出したくないんでしょうか?
昔だったら病名のないまま老衰ってことで死んだのが今は立派な病名も付きそれに対する治療法もでき死なずに済むようになりました。
みんなこのような医学の進歩をありがたいと思っているんでしょうか?小児科、産婦人科、ちょっと前までは死んでもしようがない事例でも母子ともに命を長らえることも可能になりました。これに対して感謝はないんでしょうか?
僕はこれはこれで大変ありがたいことだと思っています。その陰にはおそらくは多くの失敗があったのも事実でしょう。失敗から学び医学は進歩しました。ところで今の様に何か失敗があるとすぐに告訴すると言うような実態を見ていると(これは特にマスコミの報道がひど過ぎる)誰も医者になりはしませんよ。
もっと感謝するべきは感謝するべきです。これは政治家、官僚に対してもおんなじでしょう。つまりいいことをしてくれた時は素直に「ありがとう」と言うべきではないでしょう。
現状は文句言うだけで「ありがとう」と言う素直な感謝が少なすぎると思いますね。
 僕は本当に心の底からTVが嫌いなんで視聴率欲しさのためにこのような報道が全くないのが大きな要因の一つだと思っています。ささやかな抵抗ですが僕がブログでこのようなことを書くのもせめてそういう感謝の念と言うことを少しでも表現できればと思っているからかもしれません。
TVで「この人はよくやった」なんてやっても視聴率は取れないんですよね。批判すれば取れる。なるべく大げさにやればやるほど視聴率は上がる。大昔に書きましたがTVの収入源はNHKを除き広告料です。広告料の単価は視聴率で決まります。視聴率が高ければ収入も増える。これが今のTV局の実態です。
本当に報道が大事、とか言うんなら、国のグランドデザインが今の政治家には無いとか言うんなら視聴率なんていう次元ではありえない本音の放送をしてもらいたいですね。

閑話休題。
今回の記事で言いたいのはあくまでも今まで進んだ世の中にもう少し感謝するべきでは?といことです。僕が子供の頃「餓死」した人は結構の数だったはずですし、冬の凍死者もいたはずです。わけのわからない病死者もいたはずです。ところが今はもしそういう死者が出たらニュースになるでしょう。こういう進歩ににはもう少しありがたいと思うことも大事だと思います。もちろんそういう中で悪いと思うことはどんどん追及しなければ世の中の進歩は止まりますから、それが悪いと言っているんではありません。ただ批判でけではなく良いと思うことには素直に感謝しその良いところは伸ばすと言うことがあまりにも少ない気がすると言うのが僕の言いたい趣旨であります。


前の記事の補足 [ちょっと哲学]

先ほどは今の金融危機を乗り越えるためには21世紀的なニューディールは宇宙では?という仮説を書きました。これは僕の中にある一つの仮説に基づいています。
いくらでも書きたいことはあるんですが、そのひとつ戦争について述べてみます。戦争とは何か?単純に定義すれば20世紀の前半まではマルクスの言ったとおり経済の戦争でしょう。国民の中に餓死者を出さない、より自分の国だけは豊かになりたい。好むと好まざるとは関わらずにこの時代の競争力に決定的な影響を与えあたのは軍事力でしょう。ちょっと短絡的に過ぎるかもしれませんが、では軍事力とは何が決め手となったんでしょうか。もちろんそれは時代によって変化しています。
しかし大きな流れを見ると、それは17世紀の頃までは陸軍力、大航海時代を迎えそれは海軍力に変わり第2次世界戦争以降は空軍に変わったと思っています。この流れは何を意味しているか?それはより高い視点を持ちうるかと言うのが僕のテーゼです。戦争の強弱を決めるのはいかに敵国よりも高い目線で支配権を握れるか?もちろんこれは一般論であってたとえば海に面しない国にとっては陸軍が一番と言う局面もあったでしょう。僕が言いたいのはそういうことではなく歴史のヘゲモニーを握る戦いの場合は陸→海→空となったんでは?と言う仮説です。
それを敷衍すると今度は宇宙に眼が行かざるをえません。事実冷戦時の開発競争はいかに宇宙からの視点で軍事的優位を保つかと言う時期があったと思ったいますし現在でも人工衛星が大きな軍事的な価値を持っていることは否めないでしょう。
さて今はそのような観点からの宇宙開発ではなく様々な意味での宇宙視点での問題の捉えなおし。これが非常に重要ではないでしょうか。需要がすでに枯渇している中で新たな需要開発をするために各国が積極的に宇宙に投資する。これぞ新たなニューディールとなりうる最後の切り札かもしれません。まあこういうと大げさに思えるんでしょうが、地球規模での新規需要はもうそれほど大きくはならないと思うんです。確かに今騒がれているエコも極めて大事ではあるでしょうがいったいどれほど大きな需要創造ができるのか?
宇宙開発といきなり言うと訳が分からなくなりますよね。でも宇宙からみるとまだまだ膨大な可能性が秘められていると思います。
まずは今進んでいる宇宙ステーションをもっと実体経済に近づけるのも手でしょう。たとえば自然エネルギーと言う観点から無限の可能性を持つ宇宙線電源と言うのも夢ではないでしょうし、無重力空間での医療と言うのもありうるでしょう。
それで行き詰れば月への移住と言うのもテーマになりうるでしょう。
大事なのは昔もこのような大きな経済危機の時は全く新たな経済需要を作ってきた人間の知恵があると言うこと。思いきった発想の転換がなければ新たな需要なんぞは作れないと言うことです。
IT産業の育成なんて自国の発想だけではなく今こそ全世界を上げてグローバルな視点で新たな需要想像をしなければ行けない時代に突入したと思っていますし、そのひとつの突破口は先ほど述べた理由のように宇宙と言うところにあるような気がしてなりません。

東洋と西洋 [ちょっと哲学]

えーーっとこの記事は備忘的に書きます。よってほとんど面白くありません。

僕の中の歴史観の中で東洋的ということと西洋的と言うことは、弁証法的に二つの対立概念として存在しています。さてちょっと酒を飲みながらひらめいたことがあるんで備忘的に書きます。

それは宗教がもろかかわります。
キリスト教を始め西洋的な宗教は常に一神教のように思えます。東洋的(別にそれが正しいと言う訳ではありません)まあ仏教が代表的でしょうがここには一神教なんて概念はありません。これはなぜか?
僕の仮説ですが西洋のやり方と言うのは常に分析的でした。理解の仕方、これを常に分けていくんですね。医学が一番分かりやすいかもしれません。人体とはどういう構造になっているのか?徹底的に分けていきますね。西洋医学的に言えば人間の体は臓器の集合体でしょう。生きていくために飯を食う。それは食道から胃に運ばれ腸に移る。その過程で生命の再生産のために必要な栄養素を取りつつ必要でないかもしれないものは後行程にゆだねられる。まあ腎臓、肝臓、膵臓あたりの出番ですか?
ところで東洋的には決してこういうとらえ方はしません。人間は生きていると言うだけで一つの系です。臓器の塊ではなく生きていることだけで一つの系ですから、そもそも問題の立て方が違うんですね。
何回も言いますがどちらが正しいなんて議論はもうとっくに終わった時代に入っています。ちょっと前までは西洋医学のやり方の方が一見正論に見えた時代がありました。
ところがたとえば肝臓がんは直したけどその肝臓を摘出した人間が死んだら、何のための医学何だったんだという反省があります。そう医は何のためかと言う問いかけが西洋医学の限界として見えるでしょう。

目的と手段の混同。医学は人を救うはず=これが目的なのに、こまやかな臓器の働きまで分かった、ゆえにそれを直せばいい、と言う医学は行き詰ってしまったんだと思っています。
さて話を戻します。このような分析的な西洋のやり方、系としてとらえる東洋的なやり方。
これは思想的にも大きな影響があったと思います。
前もこのブログで書きましたが、僕は「神」と言うのはあくまでも概念だと思っています。なぜ西洋の宗教はいずれも一神教になるのか?それは先ほども書いたように分析的にとらえると理屈では起こりえないことが起きてしまう(たとえば肝臓は治ったのにその人は死んでしまった)、これを合理化するためにはすべてを決定できる神と言う概念を使うしかないでしょう。一方東洋はあくまでも系としかとらえませんから神のようなワイルドカードは不要です。これはあくまでも自分の仮説ですが、人の思考をつかさどるものの考え方と言う意味では結構本質的ではないかと思ったんで備忘的に記しました。もちろん哲学に与える影響と言う意味では言語も大きいでしょう。ただ考え方の本質つまり分析的にとらえるか、もしくは体系的にとらえるかという志向が選ぶべきいや、自分の支えとなる宗教の選択と言う意味は結構大きな影響を与えるんではないでしょうか。
好きか嫌いかは別としてアメリカのまあキリスト教的な二元論(すべて善か悪の二元論にすり帰る)、一見何の科学性(西洋的に言って)もないように見える極めてあいまいとも思える多神教=まあ日本でしょうか、
このような大きな対立概念がぶつかりあって21世紀の学問の方向性が決まるような気がしてならない今日この頃です。
このような西洋的、東洋的と言う単純な議論ではないでしょうがいろいろな学問の中でこのような問題が派生しているのは当たらずとも遠からずなんではないかと思っています。こういう議論を踏まえ何とか新しい地平が開けると今回のような金融クライシスにも新たな解決法が見えるような気がしますし、そうしなければいけないと思っています。
ここまで書くと今回の金融危機、前回はニューディール政策で乗りきったわけですが、自分の案を言うと、キーは宇宙だと思っています。冷戦の優位性を示すために使われた観もあった宇宙開発ですが、今こそ環境問題、資源の問題、これをグローバルな視点でとらえなすすには宇宙から地球の問題を考え直すいいチャンスだと思います。そうは言っても膨大な資金が必要です。21世紀的に考えるとここに全世界的に資金を投じまさに20世紀の金融危機を乗り越えた時のような新たな需要を創出できるんでは?と言うのが最近僕の思っているところです。


死ぬ権利 [ちょっと哲学]

少しの酔いも手伝い思っていることを書きます。

生きる権利、と言うのは安っぽく良くTV番組でも聞こえてきます。
僕のようなまあひねくれ者にとっては「生=死」と言うかあらゆる二元論みたいのは表裏一体だと思ってしまううんでこのような論法をされると一体死ぬ権利とはどうなんだろうと思ってしまいます。
自分はこう生きたい、さすればこういう死にざまならば自分の人生は満足だ、と思った人がいるとしましょうか。まあ自分もそうですが。
ところが病院なんぞに運ばれて望むべくもない治療を受け、存命するとしましょう。
相手は「俺はもういいから、死なせてくれ!」と言っても今の法律上ではそんなことは許されません。
変に治療をやめてしまうとその家族から裁判すら起こされかねませんしね。
これってなんか変ですよね。行けてればいいんでしょうか?物理的に生きていること、それが何の意味があるのか?今こそ哲学が問われるんではないんでしょうか?
僕は人生観からもし全身不随になったら医療は拒否したい。別にそんな思いをして生きたくないし、それに伴う医者の努力や、不必要にかかる医療費は全くの無駄使いでしょう。
生きる権利、それを否定するつもりは全くありません。でもその裏表の死ぬ権利、これについてはもっと哲学的な議論がされるべきですし、簡単に尊厳死なんぞと言う言葉にだませれてはいけない大切な議論だと思うんですがいかがでしょうか?


オバマ当選とアメリカの変化 [ちょっと哲学]

ある意味では先ほどの記事の補足です。
世間の予測とも大きく離れたオバマの当選でした。本音で言うとあそこまで得票率の差がつくと思った方はかなり少数派ではなかったではないでんしょうか?
ある意味で大きな変化の兆しを感じます。
それははじめての黒人大統領とか言う皮相的な意味ではありません。
オバマの主張の一つ。それは安すっぽく言えば「融和」と言う概念ではないでしょうか。
彼の主張の一つ「アメリカと言うのは白人・黒人と言う差ではない、共和党・民主党と言う差でもない、ゲイ、そうではない人の差ではない。それは個人の集まりであり、自立した個人の集合こそがユナイテッド・ステーツなのだ」と言うのは歴史の新しい概念ではないのか?と思わざるを得ません。
前から思っていたことですが、手段として生きるために集団=組織があるはずなのにいつしか集団=組織が個人を支配する。僕の持論の手段が目的とすり変わる3大悪の一つがまさに逆転するかもしれない、と言うのが僕の率直な感想です。もちろんオバマが国家を否定しているわけではありません。しかし個人の復権と言う意味でのパラダイムシフトの兆しを感じます。自立した個人が素晴らしい自分の人生を生きる。本当に小さい変化かもしれませんし、本当に小さな言葉尻と思われるかもしれませんが、僕の中では大きな世界の変化の兆しを感じる大統領選挙であったことは間違いありません。
まあ、小難しい、偏屈な意見と思われるでしょうが、僕の本音として記述しておきました。

オバマが大統領になりましたね。 [ちょっと哲学]

注目のアメリカの大統領選。オバマが圧勝しましたね。
マケインが勝ってもオバマが勝っても日米関係に変わりはないとの麻生政権のコメントが出ています。
確かにそうでしょう。
でもそんなふうに他人事と思っていいんでしょうか。
マケインの会見、オバマの会見、両方聞きました。
一見お互いをたたえあえた(安っぽく言えばライバルがお互いがたたえあえた)ようなコメントにも聞こえますが、あれは本音ではないでしょうか。
アメリカ発で起こしてしまった世界的な金融不安、前も下院で金融安定化法案が否決された時に書きましたが、金融と言うのは「信用」だけで動く世界と言っても過言ではないんで、あの時に僕の不安は「これで世界的な金融不安が起るんでは?」というものでした。
今起きているこの現象をどうとらえるのか?
マケインもオバマもおんなじ認識なんだと思いましたね。
今起こしてしまった金融不安、それに伴う実態経済の大減速をアメリカが一致団結して抑え込まなければいけない、と言う意味では変わらないということです。それに対するやり方は両者で全然違うでしょう。でも二大政党政治で重要なのはこういった問題意識の共有でしょう。
いったい今の日本の政党はどれぐらいこういった問題認識が共有されているんでしょう。極めて疑問ですね。
共産党・社民党は論外として、民主党あたりは今回の金融不安は大した問題とは思っておらず、これを契機に何とかして政権を取りたい、という自己本位 な考えしか浮かんでいない様に思います。
たとえば今回マケインがオバマに述べたように「今は政党の違いを乗り越えてこの危機を一致団結して乗り越えよう!」なんてことが言えるんでしょうか?(まあ言えんでしょう)
これは自民党にも言えることなんですけどね。
大統領選挙は終わりました。でもこの選挙を戦った両者がすべての知恵を出し合い、今の難局を乗り越え新たな経済状況を作り出せばまたアメリカが世界のイニシアチブを取り戻すでしょうし、ある意味ではそうなる方が(個人的に好きか嫌いかは別にして)世界の安定につながると思います。

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なぜ山に登るんだろう? [ちょっと哲学]

今日は珍しく遅くまで起きています。
そこで久しぶりにちょっと自分の思っていることをつづります。

なんで山に登るんだろう?これって大昔から良く登山家に寄せられる質問です。
「そこに山があるから」って答えは結構有名です。でもそれって答えが一つのはずはないですよね。
僕の場合は山の上のからの絶景かもしれません。テニス仲間に写真家がいます。敬ちゃんと言います。
考えてみると圭ちゃんと同じですけど全然違う人です。
ちょっと芸術論になるかもしれませんが、僕は音と文字には反応するかもしれませんが絵とか映像にはきわめて反応が鈍いんです。絵画の世界では感動したことがありません。音で言えば菊地雅章(プーさんとも言います)のライブで本当に全身総毛立つ感動を覚えたことがあります。あの時の続々感、言葉では表現できませんが本当にゾクゾクしたもんです。
しかし何回も言いますが絵画、映画ではそういう記憶はありません。
人には感動するメディアが違うのか、まあ単純に僕の感性が鈍いんでしょう。

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自分自身で生きるということ [ちょっと哲学]

しばらくお山に行ってたところ団長のブログで議論白熱!
それ自体は文句はありませんよ。
でもいろいろな人がコメントしていたけど、なぜ今になって急に?ってのが僕の率直な感想です。
もっと不可思議なのはそういうコメントに限って匿名が多いってこと。
自分はこういう立場でこう思うからあなたの意見は少しおかしいと言うなら分かる。
だんちょのところのコメントでこいつ頭おかしいんじゃないのって言うのがいくつもあった。
何回も言うかもしれないが匿名は止めて欲しいね。なぜそういう意見かってその人の立場でしか分からないことも多いし、書いた方はこれでわかるなんて思って書いているんでしょうが、だんちょのブログ読めばわかると思うんだけど、書く方としては少しでも多くの方に少しでも多く分かってもらえるように書いているんですよね。それが正しいんでそんなことも分からない奴はコメントするなって言ってるんじゃないですよ。
反論をするならそれなりに相手の言い分も考えろってことですね。
だんちょがすべて正しいなんて思わないし、そもそも正しいって何なんでしょう。歴史を見れば正しい、なんてのは意味がないかも知れない。
人が誤る馬鹿らしさって、そもそも自分が正しいっていうことかもしれない。僕は相当歴史に対する見方は自信がある。その時代時代でいろんな人がある意味では革命を起こしたかもしれない。
それは正しいこともあったかもしれないしそうでなかったこともあるだろう。
残念ながらもちろん自分が正しいと思ったことにしか人はモチベーションンを感じないんだが、だからと言って自分だけが正しいなんて思いあがったら世の中は破滅ですね。いわゆる原理主義の塊通しになるんだから。
何が言いたいかって言うと、議論は大いにするべし。
僕もある意味では原理主義者です。マルクス原理主義者かも。だからこそ弁証法的に対立理論があり、その議論を深め、量的矛盾を多くしなければアウフヘーベンはないでしょう?
でも自分だけが正しいなんて思っていてはアウフヘーベンはないんですよ。
真摯に意見の違う相手の言い分を聞く、その中でいいものがあったら取り入れる、そんな当たり前のことができずに自分のメンツばかりを考える、こういう奴がいない中での本当の議論を望む、これが今の心境の一つでしょうね。


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